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瀬戸内海で2番目に大きな島、「小豆島」 大和朝廷の建国以来、皇族との関りが深かったこの島を、現在から見つめ直し後世に語り継いで行きたい。
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  • 05/05/10:56

11.30.13:45

小豆島熊野信仰

 前記にも書いたが、小豆島は備前児島に属しており、児島五流いわゆる熊野系修験者が
関っていたと考えられる。
この島の西の滝「龍水寺」、東の滝「洞雲山仙齢寺」なども熊野系修験者によるものではなかっただろうか。
「熊野那智大社文書」の中で、小豆島一円が那智大社実宝院の檀徒であったと記述されている。
次回はこれに関する修験山伏の寺院の存在について。

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11.28.13:50

熊野信仰と小豆島

 修験道のあらましは、前項にて簡単に記述したが、実際のところ小豆島はどうだったかというと、
この小豆島は、鎌倉時代に修験道が盛んになったと歴史資料にはあるが、南北朝時代に統治していた、
「佐々木信胤」にも関係してくる。
この小豆島は「備前児島」に属しており、その「備前児島」が熊野神社の荘園であったことから、
熊野信仰が行われたと察しられる。
では、この小豆島が熊野系修験道(児島五流)の地であった事を、次号より記述していきたい。

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11.24.12:13

新熊野三山

 一言主の神の訴えにより、役小角は捕らえられた母を忍び自首して、
伊豆大島へ島流しにあった。
紀州熊野では、小角の五人の弟子(義学・義玄・義真・芳元・寿元)は難を避けるため、
ご神体と共に瀬戸内海を数年間漂流し、岡山県の児島に上陸し、新熊野三山を開く。
そして、児島五流として、尊龍院・太法院・建徳院・報徳院・伝法院が建立され、
現在では五流尊龍院だけが残っている。<天台密教系の総本山>

鎌倉時代には後鳥羽上皇の皇子、覚仁親王が新熊野検校に任命され、
承久の乱の罪に問われた頼仁親王も、この地に流された。
尊龍院の大増正は頼仁親王の血脈を受け継いでいる。

隣接して「熊野神社」もある。

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11.22.17:23

役行者伝説

役小角は松の実を常食としていた。
あるとき、山の神(鬼)に対して葛木から金峰山へ石橋を架けるようと云って昼夜、岩石運びの工事を始めたがなかなか進まず、小角が何故、進まないのか?と尋ねると、山の神達が、「それは、一言主の神が、容姿が醜いので昼は休み夜更けに出て働くので遅くなる。」と話した。
これに対して、小角は怒り一言主の神を縛り谷間に押し込めた。
一言主の神はこれを大いに怨み、時の朝廷に「役小角は国家を奪う志あり。」と訴えた。
驚いた朝廷は早速、小角の母を捕えて罪を責めたという。





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11.21.15:12

役行者(役小角)

修験道の開祖と知られる、「役行者」について触れてみます。

続日本紀によると、大和国葛木上郡茅原に生まれ、父は高加茂朝臣、別名:大角
母は渡都岐比売、別名:白専女と云い、物部真鳥の娘であった。

17歳の時に元興寺で学び、孔雀明王の呪法を会得し、葛城山や熊野、大峰の山々で修行を重ね金峰山で金剛蔵王大権現を感得して修験道の基礎を築いたとされている。



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11.20.14:04

修験道2

 修験道の法流は大きく分けると次のようになる。

真言宗系<当山派>=醍醐寺三宝院・・・聖宝理源大師が開基(真言宗醍醐派)

天台宗系<本山派>=聖護院・・・円城寺の増誉が建立(本山修験宗)、熊野三所権現を祀る。

拠点としては上記に加え、奈良県吉野山「金峯山寺」(金峰山修験本宗)=開基:役小角<役行者>
がある。

修験道は神仏習合の信仰であるため、修験道の神=権現、王子
代表されるところでは、蔵王権現、九十九王子 などがある。

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11.02.16:56

修験道1

[修験道]
厳しい修業を行う事により、様々な「験」(しるし)を得る事を目的とし、山岳信仰と神道、仏教、道教、陰陽道などが習合して確立した日本独特の宗教で、平安時代から盛んに信仰される。
開祖は「役行者」



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